冷花伝 #035 雲羅華の波

一月(ひとつき)以上、末目彦は老婆と語り合った。老婆が妖精であることに気付いてからは、老婆自身に本性を知らせることに専念したのである。これは非常に難しい作業である。妖精は、人の想いが縛して産まれた。だから考えに柔軟性はない。しかし式神の領域ならば、多少の理解力はあるはずだ。それは老婆の親に依るのだが、その親が分かれば、尊霊界安定の手立てが分かるかもしれない。自分でも「何を根拠に」と、思ってはいたが「そんな気がする」と云う希望の一心を込めて、老婆に賭けてみたのである。「人間であった時の御名(みな)を教えてもらえませんか」老婆は少し考え込んでいたが「妾(わらわ)は速水軍の戸穴坐(となざ)式将(しきしょう)である」と男口調になった。末目彦にとっては初めて聞く名だった。速水と云う氏(うじ)を聞いたことはあるが、速水軍は聞いたことがない。末目彦は平安時代からの尊霊である故、鎌倉時代への移行期を知っている。況してや文官とでも云うべき素養の持主だ。生前は母から仙術も授かっている。尊霊の中では世情に詳しい者である。「速水軍は何処で陣を張っておったのですか」これは末目彦の鋭い質問である。妖精ならば際立った記憶が中心に在るからだ。「帆船なれば水上に陣を張っておる。路は方海月(ほうくらげ)の尖(とがり)を繋(つな)ぎて手繰(たぐ)る」と、老婆は答えた。この言葉から判明した。人間界の出来事ではない。ここで末目彦は冷花の言葉を思い出した。最初に聞いたのは「煩(うるさ)い黙れ」だったが、二度目の観察の時「尖を見て飛んでおる」と聞こえた。冷花の胎児から聞こえた声、そして老婆が云う「方海月の尖」この二節の関連を、其の時の末目彦には解明出来なかったが「これが原因だ」と心中で叫んだ。ここで作者が先走ったことを述べるが、方海月と云うのは、雲羅華(くもらげ)と云う特殊な妖精なのである。嗜乃津(たしなず)の尊霊界が危機に陥ったのも、城島(きじま)尊霊界に亀裂が在ったのも、この雲羅華に因るものだったのである。

コメント

このブログの人気の投稿

鯉冥士の天文学(JT 11:49/19/10/2022 三蔵)