冷花伝 #040 母の遺産
ここで話を「末目彦と老婆の語り合い」に戻す。数カ月を過ぎた頃から、老婆の様相が変わってきた。最初は速水軍の戸穴坐(となざ)式将(しきしょう)だと豪語していた老婆だったが「自分は本人ではない」と思い始めたのである。その切っ掛けは、他の自称尊霊との接触であった。老婆と出逢った事始めは、縛力が安定している処を見付けたことから始まっている。不安定な部分は、どちらかと云うと妖精界になる。だから老婆の居場所は、辛うじて尊霊界になる。しかし尊霊が住み着くような空間ではない。人間界に例えるならば沼地だらけの土地である。そして空気が重く感じられる。そんな処で普通に暮らしているのだから、尊霊ではあり得ないのだ。自分が妖精だと気付き始めるのと平行して、客観的な思考で戸穴坐式将のことを思い出した。その概略は、内海を航行中に海賊に襲われた。応戦したが相手は2隻で挟んできて、略奪した積荷を2隻に分配して去った。その後、何故(なぜ)か操舵が利かなくなって浮岩(ふがん)に衝突した。そして此処へ来た。と云う話だ。浮岩に衝突して戸穴坐式将が亡くなったかどうかは、当時の末目彦には判断出来なかった。云えるのは、この老婆が式神として戸穴坐式将を護っていた。一口に言ってしまえば此れだけの事なのだが、此処まで聞き出すのに何カ月も要している。然しながら成果はあった。尊霊界と人間界の違いが分かっている末目彦にとっては、貴重な情報になっている。人間界の現実では、襲ってきた海賊船は一隻である。挟んだ2隻の内、1隻は念積象(ぞう)であって式神だから見えたものなのだ。末目彦は詳しく老婆から聞いているから、念積象が挟んだ理由に水壁の状態を観た。それから連想して、自分が菜田に向かう際に弾かれた原因を推測出来た。老婆も自分も、其れに弾かれて城島まで落ちてきたのだ。そこで希望が出てきた、嗜乃津(たしなず)尊霊界の壊滅には未だまだ時間がある。そして重要なことを思い出した。城島の向こう、戯岸(ざれぎし)は母の禊場(みそぎば)だった。戯岸とは現代の地図では大阪湾になるが、神戸港辺りまでの海岸沿いを意味する。つまり菜田も含まれているのだ。末目彦の母は女仙経を得て、桜巫(さくらみこ)に成った人だ。ここで作者の説明を入れるが「巫」の一字で書く場合と「女」を足して二文字で書く「巫女」がある。漢字としては「巫」一字に女(おんな)の意味がある。だから「みこ」は一字で書けば良い。男の「かんなぎ」を「覡(げき)」と云うことは既に語っている。二文字で書く「桜巫(さくらみこ)」は仙女としての本名だと思っていただきたい。三文字で書く「桜巫女(さくらみこ)」は尊称が含んでいる。他例を一つ挙げると、仙女の「星名(ほしな)」が本名なのに対して、尊称を含めて「星名女(ほしなめ)」と書いている。話を戻すが、桜巫女は自身の禊と共に妖精界の締縛を行なっていたのである。つまり水壁の端を締縛して妖精界の安定を願っていたのである。
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