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冷花伝 #033 城島の幽霊

舟会の涙には概ね二通(ふたとお)りの理由があった。一つは人生最大の驚きだったこと。もう一つは冷花に逢えたことの喜びを感じたこと。それでは何を驚いたのか、冷花が語った尊霊界の実態である。自分の無知にも驚いたのかもしれないが、甲子(かし)の学識に驚愕したのである。たった二カ月で、十歳の子供に是(これ)だけのことを教え込んだ事実。ところが其れには裏がある。突然(いきなり)だが絡繰(からくり)を話そう。冷花が尊霊に注目される理由は二つ在った。一つは「嗜乃津(たしなず)の尊霊界を救う為に生まれてきた」と期待されたこと。もう一つは「昴女が降りてきた」と噂されたこと。そして作者が注意した通り、此の二つは別ものである。ところが冉(なみ)族にとっては、この二つに繋がりがある。冷花が未だ胎児で在った時期、尊霊の末目彦は「嗜乃津の尊霊界を救う為」に奮闘していた。冷花が一歳になった辰月の十五日、末目彦と仲間の尊霊方(そんれいがた)は水壁(みずかべ)の方向に大龍神を目撃した。それを吉祥と思い「これで危機から脱出出来るかもしれない」と希望を抱(いだ)いたのである。そして末目彦は、水壁(みずかべ)を渡って菜田(なた)へ、解決策を求めて向かったのであった。ところで前回これを述べた折「末目彦は旅立った」と表現したのを覚えておるだろうか。これは単なる文学的嗜好(しこう)ではなく、現実を描写したのである。水壁に向かった末目彦は、水壁に押し寄せられて弾かれてしまう。そして、縛力が異常な尊霊界へ落ちてしまった。そこには、尊霊らしき者が沢山居て、言葉も通じる。「私は菜田に向かっているのですが」と、目的を話しても「分からない」と返ってくるばかりだった。そして恐らく一週間ほど彷徨い、縛力が安定している処を見付けた。そして髪の長い老婆に出遭(あ)い、ここが城島(きじま)だと聞いた。

冷花伝 #032 舟会の涙

冷花十歳の未月13日、舟会がやってきた。冷花は「待ち構えていた」と表現するのが相応しい。この二カ月、母にも熱心に質問をしていた。単なる知識欲ではなく、自分が観たものの解明である。それは、冷花が尊霊に語りかけられ続けてきた理由が、芽吹いて行くことでもあった。冷花の一声「小母(おば)さんが言っていた那輝羅(なきら)さんは何処に居るの」いきなりの質問に舟会は少し驚いたが「神界ですよ」と端的に答えた。すると冷花は不思議そうな顔をして「幽霊になって彷徨ってるんじゃないかな」と言う。舟会は一瞬戸惑ったが「いいえ伊佐那輝羅は黄泉国に居ます」と、落ち着いて答えた。すると冷花から意外な話が出た。「何季(いつ)の事かは分からないけど、この辺(へん)の幽霊が那輝羅さんのことを言っていたようなの。大昔に自分たちの村を造った御先祖様だって。村を造ったら直ぐに居なくなったそうだけど、彼方此方(あちこち)の幽霊が同じ言(こと)を言ってるそうだよ」ここで舟会は不機嫌になって 「彼方此方(あちこち)って、遠い処もあるの」 と質問をする側になった。ここで注釈を入れておくが、冷花が幽霊と呼ぶのは尊霊のことである。「冷花は遠くへ行ったことはないけど、世界中を観てきた幽霊が居て、書に記(しる)しているんだって。母さんからも聞いたし」と言いながら甲子の方を見た。舟会は黙って聞いていた。「その書は菜田(なた)にあるそうだけど、冷花も大人になったら行って読みたい。其の中に小母さんが言っていることと同じものもあると思う」ここで舟会は穏やかな表情になって「やはり冷花は昴女ですね」と小声を漏らす。すると透(す)かさず「違うよ。冷花は聞いた話を言っているだけだから。そんなことで昴女だなんて思ったら変だな。そう云えば、小母さんが住んでいる城島(きじま)のことも詳しく書いてあるそうだよ。冷花が赤ちゃんの頃、幾つかの尊霊界が壊れそうになったんだって。それを助けてくれた龍神が城島のことを言っていたそうだよ」ここで舟会は厳しい表情になって「その話、教えて欲しい」と、やや乱れた声で言った。その後も冷花は喋り続け、舟会の質問に答えた。ほぼ一刻の独演だったようだが、それを母は真剣な眼差しで見守っている。そして舟会の目からは、幾度となく涙が流れていた。

冷花伝 #031 黄泉国の鎮座

黄泉国の由来であるが、其れを理解する為には妖精界の基礎知識が必要だ。「尊霊界こと始め」については、十八歳の冷花が語った言葉を既に引用している。記憶が曖昧な読者は「冷花伝 #004(ナンバーぜろぜろよん)」を読み返していただきたい。先ず、尊霊界は魂の世界である。そして妖精界は念縛の世界である。念縛とは「想いを凝り固める」ことで、人間が得意とする所作である。その所作や作業によって、人間が妖精界を創造した。もちろん例外的なものもあるが、此処では基本を学んでいただく。一方、尊霊界は宇宙に存在する正式な時空である。神界としては最も人間界に近い第十三階層になる。其処へ人の魂が入界して生存することから始まった。ところが妖精界は人が造った。掻(か)い摘(つま)んで言うと、尊霊界と妖精界は、自然物と人工物の違いである。人工物は形状維持が不安定である。だから妖精界は、不安定で寿命が短い。ところが、尊霊界に上手く締縛(ていばく)されれば寿命が延びる。締縛とは掴(つか)んで離さないことだ。それでは、冷花廿一(にじゅういち)歳の語りを引用してみよう。想いを込めるのは難しいが、追い詰められると想いは固まるものだ。どの様に追い詰められるかよりも、何人(なんにん)に追い詰められるかが決め手になる。一人で誰かを追い詰めるのは至難だ。二人で演(や)っても意が割れる。三人ならば割れても閉じる。四人は縛する尻から散ってしまう。五人に演(や)られれば、心に逃げ場が出来る。六人ならば、追い詰めた連中が内から壊れる。七人が纏まり、そして演(や)られれば、逃げ場なく追い詰められる。八人以上は煩(うるさ)いだけで、人を追い詰めるのは無理だ。私は十歳の巳月、冉族の舟会から黄泉国の由来を聞いた。その時の自分には難しかったが、十年の歳月を経て自分なりに納得した。祖の伊佐那輝羅(いさなきら)は、八禮(やらい)から倭国に渡った仙女である。帥升の時代よりも遠い昔のことだが、城島(きじま)で伊那岐(いなき)と云う男子(おのこ)に出逢い契(ちぎり)を結んだ。後に諸地を巡って多くの村を起こした。二人は特別な体質と修練によって不老を得ていた。ところが大地が揺れる時があった。そして、ある山が火を噴いた。それで伊佐那輝羅と伊那岐は逸(はぐ)れてしまう。その頃、伊佐那輝羅と同郷の星族が黄泉国に定住していた。星族は其処で定住するまでの長い間、...

冷花伝 #030 冉族の祖

冷花十歳の巳月15日、舟会がやってきた。再々の訪問を受けるようになってからは、甲子が主に相手をしている。冷花としては舟会の話に興味が湧かなかったのだが、今回は聞き入ってしまう。内容は、黄泉国(よみのくに)の起こりについてだった。母から聞いていた黄泉国(よみのくに)は、遠い国に在る特殊な尊霊界。今風に言えば「外国」のイメージで、アメリカと云う国、フランスと云う国、といった感じと同じで、冷花にとっては興味対象にならなかったのである。尊霊界ならば嗜乃津(たしなず)にも在るし、他村の伝説にも面白い話が椀咲(わんさか)ある。ところで、古事記に記載されている黄泉国(よみこく)物語は、天皇家の為に纏(まと)めた符文である。国勢を括(くく)るために神話として顕したものなので、現実の黄泉国由来(よみこくゆらい)を説く目的はない。ところが舟会の話す黄泉国(よみのくに)は、尊霊界と妖精界、それに人間界とが繋がっている。冷花は理屈の通らないことは嫌いで、何でも理由を聞きたがる。そして話に矛盾が在ると、直ぐに判る。但し「自分の知識は少ないから」と、常に思っている。そう云う意味では賢い人間に属する。賢い人間とは「自分の知らないことの存在」を常に意識できる人間のことだ。決して自分だけが正しいとは主張しないのだ。この教えは、母が話す浮気伝の至る所で語られている諭(さとし)である。前置きが長くなったが、冉族の故郷は正に黄泉国(よみのくに)である。祖は伊佐那輝羅(いさなきら)と云う仙女で八禮(やらい)の人。八禮とは現在のベラルーシに相当する。そして黄泉国は、今のアフガニスタンである。

冷花伝 #029 浮気伝

冷花にとっての浮気伝は、子守歌のようなものだった。母は唄うように浮気伝を語ってきたのである。因みに、芽込羅(めこめら)の話は其の中の一話に過ぎないが、冷花の幼少期に最も影響を与えた物語である。もちろん裏で尊霊界が騒いでいることも其の要員とも云える。浮気伝に登場する昴女は「童女で背が低い」これが冷花をして「私じゃない」と云わせる決め手になる。考えてみれば、今の冷花と比べるのも変な話である。しかし冷花の思考では「自分の魂が芽込羅だったら背が低い」と思い込んでいる。もちろん此れには一理ある。その理については後に、冷花自身が語ってくれるだろう。ところで冷花は、決して大女(おおおんな)ではないが、背が伸びるのが早かった。そして母より少し高くなったところで止まった。自分の声は甲高(かんだか)くないし、眼も乙鳥(おっとり)はしていない。それに「男子(おのこ)に興味がない」と嫌(いや)に強調する。現実に男女には関係なく、楽しく遊んでいる。それに浮気伝の芽込羅は、男を助けると云うニュアンスで伝えられている。その助け方が冷花にとっては不思議だった。要するに「自分はそんな事はしない」と思う。但し此れは成長期の冷花であって、成人してからは一変することになる。それに舟会の影響もあった。二度目の来訪以来、毎季にやって来ては男の話をする。その内容を一言で言うと「男が生きて行けるのは女の力なのです」である。もちろん仙女故に、生命の原理から語っているのであって、色恋(いろこい)の話ではない。その原理は「昴女が帥升に勢いを与えた」ことの裏付けでもある。その点については、冉族の伝えも、浮気伝も、共通している。それでは浮気とは如何なる者なのか。分かり易い表現をすれば、昴女の男版(おとこばん)である。昴女との違いは、活動記録が一切ない。つまり浮気と云う人物の活動記録ではなく、浮気から聞いた言葉集だ。その様な意味では仏典に似ている。興味深いことに、冉族の伝えに由れば「浮気は少名彦の御先祖様」となっている。少名彦は日本神話で御馴染みの神名であるし、童話に出てくる「一寸法師」でもある。

冷花伝 #028 十歳の誕生日

ここまでの話で「昴女伝説」の始りが分かったと思う。つまり冷花が生まれる約千年前が発端だったのだ。それでは話を、冷花の生まれた時代に戻そう。十歳の誕生日、再び舟会がやって来た。初回訪問の折「来年に、また訪れます」との予告は聞いていたから、甲子にすれば少し楽しみにして待っていた。当人の冷花は「あの人は同じ日に来るだろうな。誕生日を思い出すから良いかも」と云う乗りである。母が「楽しみですね」と言ったら「別に」と返したが、甲子の目には楽しみにしているように観えた。舟会がやって来たのは巳刻に入ったあたり、手土産に魚を持って来た。一声が「これは今朝に釣ったばかりです。この辺りでは取れない魚です。試しに召し上がってください」だった。「あなたが釣ったのですか」と甲子が聞くと「釣られたかのように跳んで、私の瓶に入ってきました」と舟会は行った。それを聞いた冷花は「釣ったのと違うでしょ。取ったんだよ」と言って、楽しそうに笑った。ところが舟会は真面目な顔で「釣ったのですよ」と小声で言った。それから家に入って、茶板(ちゃいた)を囲んで早速「舟会さんは何を話すのかな。冷花は話すことはないけど」と云う言葉を皮切りに、少女は半刻ほど喋っていた。頃を見計らって舟会が言った「冷花さんは好きな男子(おのこ)がおるのですか」どうやら冷花の話す内容から察したようだ。冷花は目を顰(しか)めて「そんな者はいない」と返してから話題を逸らした。「舟会さんは芽込羅(めこめら)のことを話したいのでしょ。私は昴(ぼう)じゃないよ。普通の子だから。自分が思うから間違いないんだ」と。それを聞いて、一呼吸し、舟会は何故か大笑いをしてしまった。それを見つめながら「どうして笑うの」と、やや怒った振りで冷花が押した。舟会は「御免なさいね。私が伝え聞いている芽込羅はね、人間の男には興味がありませんと言いながら男子(おのこ)を探して彷徨うらしいのです」そこで愈々(いよいよ)冷花は怒る。「冷花も男子には興味がないけど、冷花は人間だからな。芽込羅は神様でしょ。違うよ」そのあたりで、母の甲子も笑いだした。冷花は呆れたように二人を交互に睨み「やっぱり冷花は芽込羅じゃないでしょ」と言った。

冷花伝 #027 帥升の経歴

冉族の舟会(ふなえ)と冷花が語り合った結果、舟会は冷花が昴女であると益々思い込んだ。ところが冷花は、自分は昴女ではないと確信を得た。この正反対の結思(ゆいし)は奇妙に思うかもしれないが、ここに至った理由は判然としている。答えは、先程述べた「帥升(すいしょう)に関する五伝承」にある。舟会の頭に在るのは、冉族の伝承。そして冷花が母から聞かされてきたのは浮気伝によるものだった。つまり炉味に出現した芽込羅(めこめら)が、冷花にとっての昴女なのである。それから、作者が王士の伝承を採用する理由だが、王士尊霊界には二(ふた)つの妖精界が締縛されているからだ。その一(ひと)つには覚是頌(かくぜしょう)と云う記録が保管されている。著者は仙女の伊那岐女(いなきめ)で、この伊那岐女こそが、帥升に関する五伝承全ての既述に一致する存在なのである。昴女の言葉「お姉様に言われて此処に来ました」の「お姉様」である。但し其の「お姉様」の意味は、姉妹ではない。だいいち、昴女と伊那岐女は住む世界が違う。昴女は上の神界から来た。そして伊那岐女は昇仙して、尊霊よりも一階層上の神霊に成った。階層を数字で云えば、昴女は第一階層が生存界。伊那岐女は、第十二階層に留まっている。昴女は目的があって人間界に降りてきたが、人間界は縛力が強くて上手く入れない。そこで第十二階層に居る神仙に意見を求めたと云う訳だ。覚是頌が書かれたのは西暦150年あたりだと思われるが、保管場所が妖精界になった理由は別の機会に述べる。覚是頌に依れば「帥升は渡来仙女の孫」と云うことになっていて、其の渡来仙女の里は遥東黄(ようとうき)となっている。遥東黄とは現在のイラク周辺だ。黄はアフガニスタンのことなので、黄泉国(よみのくに)の遥か東に位置する。因みに作者の設定では「黄泉国は現在のアフガニスタン」であることを覚えておいて欲しい。東は太陽が昇る方位なので、天照族の勢力地。要するにメソポタミア地域のことだ。メソポタミアをルーツとする帥升が、神武天皇になった。そして、後に流決された日本国神話を「天照を中心に組み立てたこと」に、納得が出来る。

冷花伝 #026 昴女と帥升

帥升に関する伝説は五伝在って、全てに「芽込羅(めこめら)」が登場する。共通は「お姉様に言われて此処に来ました」との言葉である。全てで違っているのは出逢った地。先ずは既述の三増(みませ)、次に炉味(ろみ)、王士(おし)、宅星(たくせい)、そして保津(もつ)。現代の地名に相当させると、炉味は大分県国東(くにさき)市、王士は福岡県築上(ちくじょう)町、宅星は福岡県北九州市、保津(もつ)は佐賀県唐津(からつ)市。次に伝承族を述べると、冉(なみ)族が伝えているのは三増での出逢い。炉味での出逢いは浮気伝。王士での出逢いは王士伝。これは王士尊霊界の記録である。宅星は星名女(ほしなめ)の語りであるが、師の龍子舞(ろこまい)に教示されたそうだ。保津については多くの尊霊界が伝えている。そして其々の伝承を比較すると面白い。三増に現れた芽込羅は、豊満な身体に鋭い眼、背は成人のよう。炉味の芽込羅は童女で背も低く、甲高い声で話すが眼は乙鳥(おっとり)している。王士の伝承は、作者が採用している芽込羅である。十五歳くらいの少女で優しい表情が特徴だ。口数は少ないが明瞭に話す。宅星に現れた芽込羅は、尻が隠れるほど髪が長い。常に微笑んでいたそうだ。保津で出逢った芽込羅は話好きのようだ。流暢に話すだけではなく、仕草も小まめである。何れ、夫々の芽込羅を語る機会もあろうかと思われる。一方、帥升の記述は炉味を除いて、眉が濃くて筋骨隆々。背丈は普通である。炉味での帥升は細見で背が高い。

冷花伝 #025 九歳の誕生日

仙町録によると、帥升が接見した少女の名は「芽込羅(めこめら)」と云う。文字は借字ではなく筐縛(きょうばく)である。借字なら一文字一音なので「めこら」と鳴ってしまう。所謂(いわゆる)音写(おんしゃ)の原法であるが、筐縛は文字を筐(はこ)と見做して音を納める。ここは教壇ではないから詳しい語りは控えるが、言(い)いたい言(こと)だけを云うと、音(おん)の「めこめら」とは言霊(ことたま)だ。そして文字の「芽込羅」は納音之筐(なっちんのはこ)として働く。それでは此の段で「納音筐(なっちんきょう)」を述べた理由であるが、冷花九歳の語りをする為だ。と云っても、冷花九歳の一年間を語るのではない。九歳誕生日の出来事のみである。その日、冷花の家に冉(なみ)族の仙女が訪ねて来た。当然のことだが、甲子にとっては見知らぬ女である。「私は城島(きじま)に住む舟会(ふなえ)と申す者ですが、一月(ひとつき)ほど前に菜田(なた)の地神(じがみ)に会いまして、娘様のことを聞きました。私の一族に伝わる伝説が在りまして、もしや娘様が其話(そわ)に関係されるかと思い、参じました」ここまで聞いて甲子は女の言葉を遮(さえぎ)って「会わない方が良いと思うのですが」と言う。仙女は驚いた様子もなく「それでは日を改めましょう」と言って帰ろうとした。そこで冷花の声が「その小母(おば)さん、また来るんだったら今で良いよ」と聞こえてくる。仙女は微笑んで「芽込羅」と呟いた。小さな声だったが冷花には聞こえたらしく「違うよ」と大声で返した。それから仙女と冷花は三刻ほど話し込んだが、一刻あたりから母が加わり、二刻あたりからは父も加わった。冷花はよく喋る子だが、珍しく舟会の話を熱心に聞いていた。して其の結符だが、舟会は「冷花が昴女であると益々思い込み」冷花は「自分は昴女ではないと確信を得た」のであった。ところで舟会が住んでいる城島とは、今の淡路島である。そして作者の頭にある多戸(たんと)でもある。それから作者として言っておかねばならぬ事がある。舟会が「芽込羅」と囁いた時、冷花は「めこめら」と云う言葉を知らなかったのである。しかし其れが「昴女」のことだと直感したのだ。そして此の日は辰月の一日(ついたち)、冷花が九歳になった誕生日である。舟会が冷花に音の「めこめら」を、筐の「芽込羅」に入れて贈った日なのである。

冷花伝 #024 昴女の伝説

冷花の語りは、昴女騒ぎから始まった。それでは、昴女を深く知る機会を与えよう。各地で尊霊界が発生した経緯は、簡単ではあるが既に述べている。察しの通り「昴女の伝説」は尊霊界で語られていることだ。ところが其の起因は人間界に在る。其れでは此処で、帥升(すいしょう)と云う単語を覚えてもらおう。一応、人名である。支那の歴史書である「後漢書」に記述されている倭国王である。外書に記述されている最古の日本人と云えるが、諸説はある。しかし私の小説では、彼こそが後の神武天皇なのである。そして帥升は二度、支那へ貢物をしている。後漢書の東夷伝に記述されたのは二度目の象であって、西暦57年の初朝貢では金印を賜っている。実は、帥升が西暦107年に二度目の朝貢を行うことに昴女が関わっているのだ。ところで帥升は人間であるから、背後には尊霊の加護がある。尊霊が動いてくれるからこそ歴史に名を残せた。当時、支那へ渡航するには命懸けである。故に勇気と絶大な決心が必要なのだが、その原動力を与えるのは「何でもない不思議体験」であった。そして、よく引き合いに出されるのが「夢の御告げ」である。しかし帥升の場合、生めかしい事が切っ掛けになる。西暦101年の冬、三増(みませ)の海岸に「水浴をする少女」が現れると云う噂が広まった。もちろん少女が水浴をするのは珍しくはない。ところが季節からして不自然だった。それを聞きつけた帥升は、一人で確かめに行った。すると噂通りに少女が水浴をしていた。彼は静かに近寄って声をかけたが、少女は微笑むだけで返事をしない。顔つきからして近隣のものでないことは明らかである。言葉が分からないのだろうと察し、口は封じた。暫くは見つめ合っていたが、彼は衝動にかられて少女を抱きしめた。少女は嫌がることもなく、黙って抱かれていた。暫くして帥升は我に返った。少女はその顔を見上げている。そこで彼は周囲を見渡した。脱いだであろう衣服が見当たらない。「この子は最初から裸だったのか。ならば此の寒さで耐えられるのは神」と思った。その念が伝わったのか、少女は話し始めた。「お姉様に言われて此処に来ました。道も分からず彷徨っておりましたが、初めて声をかけたのが貴男(あなた)です。これで用を果たしました。勢いを保たれますように」と言って、海の中へ消えて行った。ここで帥升は何故か勢い付いて再渡航の決心をしたのである。後に帥升は、...

冷花伝 #023 昴女の扉

為津(なしず)村の汝我(じょが)を思い出してみよう。占星術師が徳を積んで、尊霊になった者だ。昴女の、噂を起こした元処(もとしょ)の一処(ひととこ)でもある。汝我が村人の尊敬を深くしたのは、雨乞をしてからであった。一度(ひとたび)の雨乞なら紛(まぐ)れもある。ところが汝我は、四度(よたび)の雨乞を成した。但しここで言いたいのは、汝我の能力ではない。汝我の祈りに応えてくれた龍神についてだ。密教経典には「雨を降(ふ)らす龍神」の記述がある。そして知っておいて欲しいのは、龍神と雨を結びつけてはならないことだ。人間に専門職があって、人其々に得手不得手があるように、雨を降らせる龍神は意外と少ない。誤解される理由としては「龍神が動くと天気が左右される」からだと思われる。どういうことかと云うと、龍神が動くと天気に影響があるだけなのだ。「雨を降らせる」或いは「雨を止ませる」ような特定した技は、それに特化した龍神しか出来ない。更に詳しく云うと、棲息域による影響もある。天候を最も左右するのは隣景。但し隣景だけではエネルギーが足りない。そこで隣景の上から龍神が来る。その龍神は尊霊の祈りに応える象(かたち)で現れる。数字で云うならば十二階層の龍神である。要するに、十二階層に棲息する龍神が雨乞本尊に適しているのである。此処まで話したところで述べておくが、積龍神は雨乞とは無関係である。汝我の祈りに応えたのは追蛇女(おだめ)龍神と云う方だ。追蛇女の棲息域は十二階層だが、出魂界は九階層に在る。冷花が十三歳になれば頻繁に現れる龍神なので、名を記憶しておいていただきたい。

冷花伝 #022 積龍神の囁き

両親は赤子の口元を観て、多くを考えた。そして父は祈り始めた。因みに嗜乃津(たしなず)は信仰対象に困らない地域だった。不思議な話は蔓延していたのだが、娘の様子は独特である。そこで父は、自分が幼い頃、祖母から聞いた龍神の伝えを思い出したのだ。その日は特定出来ないが、冷花は生後八カ月にはなっていた。父は、甲子の口癖を真似てみた。「父には何も分からないが、御前は大切な事をする為に生まれてきたのだね」すると応えてくれたような気がした。口元の動きは「めしゃに」と三回繰り返したようだった。この「めしゃに」が龍神と云う意味で、本当に冷花が「めしゃに」と言ったのかは疑問である。恐らく祖母から聞いた龍神の記憶が、その解釈を導いたのだろう。しかし其れは問題ではない。祈り始める切っ掛けになった。誰に頼ることもなく、父は自分で祈り始めたのである。祈り始めて三日目、積龍神が現れた。此処で種明かしをしておくが、父が天才的な霊能者だからではない。冷花の様子を伺う為、常に積龍神は待機していたのだ。しかし伝える手段に困った。積龍神からは父の想いが分かるのだが、父は積龍神の言葉を聞くことが出来ない。そこで積龍神は尊霊の一人に囁いた。「父の想いは聞こえておる。ただ職位に従え」職位とは、今の職を意味する。要は「日常を健気に歩めば良い」と云う意味である。その頃、尊霊界では「昴女の降臨」が噂され始めていた。

冷花伝 #021 突先の色

臨月あたりには難産の心配もあった。しかし概ね、甲子(かし)の妊娠中は平穏な日常だった。無事な出産も叶った故に、有難き思いに満ちている。でも「何かあったような」と、父は選べぬ記憶が擬(もど)かしかった。その感性が始まって、十日ほどして「そう云えば」と閃(ひらめ)いた。甲子の突先が淡く光っていたのを思い出した。気の所為(せい)くらいに思っていたことだが、考え直して試(み)れば不可思議なことだ。突先とは乳首のことだが、田室女の身体には例え用のない魅力がある。況して突先は「想杭(おもいくい)」と云える処だ。観るだけで安らぎを覚える。ところで尊霊界から眺めれば、甲子の突先が淡く光っていた理由は分明だ。女神が語りかけていた時の現象である。尊霊女の多くは出産経験もある。胎児に語り掛ける気持も、男神(おがみ)の其れとは違う。子を思い遣る念が注いでくるのだ。しかし多くの尊霊が語りかけたのは、其々(それぞれ)の好奇心ではなく調査であった。それも忘れてはならない。せっかくだから作者の知識を披露しておくが、突先の耀(かがやき)には色が塗られている。塗るのは御月様、厳密には廿八色になるのだが、大雑把(おおざっぱ)に七色分類すると、月曜色、火曜色、水曜色、木曜色、金曜色、土曜色、日曜色、である。見ての通り、現代でも馴染みの「七曜」だ。七色分(しちしきぶん)は密教経典によって流決されている。この小説設定では、鯉冥士(りめいし)と云う渡来学者が語ってくれるのだが、支那の科学史を持ち出せば、北宋時代の沈括(しんかつ)先生に至って再流決された。難しい話はこれくらいにして、父が観た突先は淡い七色だったのだ。

冷花伝 #020 胎内の変遷

田室女(たむろめ)、つまり妊婦の身体では、新しい中心が現れてくる。新しい中心とは赤子の四魂のことだが、一人の人間が形成されていくことでもある。人間社会は「人の集まり」で成り立つ。当然のことを言っているのだが、一人の人間は、自分の意識に依れば「自分は世界の中心」である。言い換えると、社会は「中心の集まり」なのだ。此処で何を哲学しているかだが、これは冷花の両親が、妊娠中を思い出しながら、語り合っていたことだ。結論に至る経緯は二人の記憶に在るが、田室女は賢者の遺聞を拾い集めていたようだ。「その賢者の一人」と思われるのが尊霊の末目彦だ。末目彦が胎児の観察を始めたのは、受胎して一カ月あたりからだった。その頃から甲子には「誰かに囁かれているような感触」があった。その感触は約一月(ひとつき)続いて、ある日、無くなった。それから胎児が動き出したのだ。一般では、四カ月あたりから胎児の動きを感じるそうだが、甲子は早くから自覚していた。それは世間で云う胎児の動きとは違うかもしれないが、甲子は田室女として「動く胎児」を感じたのである。その時は気にしていなかったが、改めて妊娠中を思い起こすと普通とは違っていた。最初、末目彦が話しかけたのは受胎一カ月あたりから三週間。そして棟締(とうしめ)に報告して三日後から再び三週の間、語りかけたのである。二度目の三週間では「誰かに囁かれているような感触」が甲子にはなかった。その理由は、胎児の四魂が応えたことにある。つまり神霊界での出来事として室分されたからなのだ。ここで忘れてはならないことがある。それは、冷花に語りかけていた尊霊は末目彦だけではなかったと云うことだ。

冷花伝 #019 乳呑児

此処で少し、尊霊界の記録から離れてみる。親の目から見る冷花の語りだ。健康な赤子で母乳も美味しそうに呑む。母親の乳房も乳を豊富に突出していた。謎の仙女、星名女に倣ったわけではないが、甲子(かし)は授乳後、冷花の口元を見つめるようになっていた。そして「母には何も分かりませぬが、御前は大切な事をする為に生まれてきたのですね」と言うのが口癖になっていた。それを言うと返事をするかのように口が動く。生後七カ月の頃になって、返事の口が喋っているように見え始めた。何かしらの発声は普通の赤子と同じであるが、明らかに母の口癖に反応するのである。父は「魂が何かを伝えようとしているのかもしれない」と考えた。それからは父も熱心に冷花の口元を観察するようになった。ある時「おりめ、おりめ、たむろめ」と言っているように感じた。当地の喋り癖で「折り目」と云うのは「目を閉じる」ことを意味し、繰り返すのは「そうしなさい」の綴りになる。「たむろめ」は二通りに解釈が出来る。先ずは「田室目」で、目(もく)を書く。もう一つは「田室女」で女(おんな)を書くのである。「田室」は子宮のことで、目(もく)の「田室目」なら「子宮の様子」と訳せる。女(おんな)の「田室女」なら妊婦と云う意味になる。前者なら「目を閉じて子宮の様子が分かります」となる。後者なら「目を閉じて妊娠中のことを思いなさい」と云う意味になる。両親とも揃って後者だと思った。そこで妊娠中の出来事を、細かく思い出してみた。

冷花伝 #018 先落ちの仕組み

それでは、末目彦が菜田へ旅立ったことを語る。今までの流れから「尊霊界の危機を救う為」であることは分明だが、此れが切っ掛けになって仙町録が厚みを増して行く。要するに、末目彦が多く執筆をしたのである。ところで「尊霊界の危機」であるが、最悪は界そのものが壊れてしまうことだ。原因は、尊霊方の念積が積もって環境破壊をしてしまうと考えればよい。上の神界が壊れた場合は、界落(かいおち)となって、界そのものが壊れるのではなく、重くなって階層が下がるのである。階の字を使っているのは理解を促すためだ。そして現在の観測では、神界は十三階層だと認識されている。菜田の尊霊界は特殊な経歴があって、十二階層から界落して尊霊界になった。だから環境維持の技術を研究している。名称が有名な「龍宮界」の一つなのだ。話は変わるが昔、浪速宮が盛んだった頃「桜巫女(さくらみこ)」と云う仙女が居た。彼女は富豪だったが七十七歳になった冬、ある仙人と出逢って「不老の積帯」を売ってもらった。それで若返り、女仙になった。彼女には子供が二人いて、二人とも母を慕って、教えも受けた。そして立派な人生を遂げ、一人は尊霊になった。あと一人は普通に転生した。仙町録によれば、尊霊になった桜巫女の息子が、末目彦だそうだ。末目彦が菜田へ行ったのは、桜巫女が菜田の尊霊界に滞在中だったからだ。どうやら桜巫女は、菜田の尊霊界に滞在する前に嗜乃津の尊霊界に五年の滞在をしていたらしい。

冷花伝 #017 赤子の口元

冷花が注目されるのは「嗜乃津の尊霊界を救う為に生まれてきた」と期待されたからだった。それから、もう一つ「昴女が降りてきた」と云う噂もあった。此処で注意をしておくが、此の二つは別ものである。まだ喋らぬ赤子なのに、騒然とした空気に包まれながら始まった人生である。そんな冷花が本領を発揮するのは、仙町録によれば十三歳からだ。当然そこからは、人間としての言動に注目される訳だ。しかし念を押しておくが、冷花の所作が詳細に分かるのは、尊霊界の記録が在るからである。さて、末目彦が何をしに菜田へ行ったかは気になるところだ。だが其れは後回しにして、星名女(ほしなめ)の話を先にする。冷花が生後三カ月になった頃、いきなり現れた仙女である。音象詩(おんしょうし)に本人の言葉が残っている。音象詩とは、嗜乃津尊霊界に保管されている記録である。著者は「星名女」本人らしい。曰く「此國に渡れしは音象の導き故。鎮星の奏でるは心様を調和するが為。星名は龍子舞を師とする仙女である」と。これは自己紹介のようであるが、全文を出すと紙面が埋め尽くされてしまう。そこで、冷花の傍で行った所作を述べておこう。生後三カ月頃は、四魂と語るのに都合が良いと云う。つまり冷花の四魂に聞きたい事があったのだ。それは、身体に四魂が定着してしまう前の頃合いのようだ。因みに、四魂がほぼ定着するのは二歳である。現状からして冷花の出魂界を知っていての行動だ。星名女は一週間ほど冷花の家に滞在した。そしてその間、赤子の口元を一日中、見つめていたそうだ。そして両親に「龍神が迎えにきたので御暇(おいとま)いたします」と言って、姿を消した。両親は星名女に色々と聞きたいことがあったのだが、自分の用事が終われば寸陰与えず去ってしまった。

冷花伝 #016 尊霊界の危機

尊霊界に居るのは人霊神だけではない。上の神界から降りてきた神々も居られる。此処まで云えば察しがつくと思うが、尊霊界には概ね、二(ふた)通りの経歴がある。一つ目は繰糸落(そうしらく)、二つ目は引糸登(いんしとう)。一つ目の「繰糸落」は上の神界から落ちて来た神が形成した界。二つ目の「引糸登」は人間が昇界して形成した界。何れも形成時空は人間界の隣に存在する。それで「隣景(りんけい)」と呼ぶことが多い。ところで「隣景」と「人間界」とは縛力が遥かに違う。「人間界」に対して「隣景」の縛力は弱い。だから空間構成は「神霊界」の性質を持っている。そして実際に住している神々は、殆どが人間界から登った方々である。つまり人霊神なのである。ここに界滅の要素が在る。難しい理屈を言いかけてしまったが、それには徐々に慣れてもらうとして、赤子の冷花を見つめてみよう。尊霊界では常に騒がれているが、親に護られている赤子は普通に可愛い子である。赤子は討論をしないから普通に観えるとも言えるが、冷花の特殊性が観え始めるのは、最初の誕生日を迎えた頃からだった。その時、末目彦は大龍神を目撃した。「これで危機から脱出出来るかもしれない」と、嗜乃津では多くの尊霊が希望を抱いた。次の日、末目彦は水壁(みずかべ)を渡って菜田(なた)へ旅立った。水壁とは今の瀬戸内海のことだが、尊霊界の構造からして其処を渡るのは、大業だったのだ。

冷花伝 #015 尊霊の声

冷花が初めて尊霊の声を聞いたのは胎児の時だ。まさか胎児が「聞きました」とでも言ったのか、或いは覚えているのか。変な話に聞こえるかもしれないが、その答えは簡単である。冷花の記録は殆ど尊霊界に在るからだ。複数の尊霊が、熱心に胎児の冷花に話しかけた。その中で、最も熱心だったのが末目彦(まつめひこ)と云う尊霊だった。受胎して一月あたりから三週間毎日、話しかけた。普通だったら四魂が決定されていないはずだが、末目彦は試みた。そして得た言葉は一言「煩(うるさ)い黙(だま)れ」だった。とりあえず反応を得た末目彦は喜び勇んで棟締(とうしめ)に報告した。棟締とは尊霊界の纏め役の方だ。   末目彦「あの子は普通ではありませぬ。やはり先尾を得ております。私の話しかけに、言葉で答えました」   棟締「どれほど語ったのだ」  末目彦「煩い黙れと言われました」  棟締「声の印象に雌雄が診られたか」  末目彦「明らかに女の声に聞こえました」   棟締「そうか。もしや上から降りたかもしれぬ。黙れと云うわ、人の声ではないことがわかっているからだ。降りてきたなら、人から語られることを欲するはずだ」   末目彦「あと三週間は続けまする」  そんな訳で末目彦は続けたのだが、その後胎児は沈黙を守った。ところで先尾を得ていると云うのは、目的を持って人間になろうとしていることを表現している。先尾の原義は「過去を押さえておく」と云うことだ。未来に何らかの目的があって、今を演出する。つまり冷花の魂は、目的を持って此処へ来た。それでは何故、末目彦は調査を試みているのか。それは、嗜乃津(たしなず)の尊霊界に危機が迫(せま)っていたからだ。

冷花伝 #014 御山から海へ

甲子が難産かと心配した折、父が尋ねた巫が居(お)って、その巫は射膳(しゃぜ)と云う名で「御山(みやま)の麓(ふもと)に行く」と言って姿を消した。さて、その御山とは何処(どこ)なのか。安易に明かしてしまうが、それは彼(か)の富士山である。射膳が向かった「麓」とは、山裾(やますそ)のことではなく「麓」と云う地名なのである。現在の沼津辺りだ。確かに富士の裾野は広く、当時の飛仙女なら「海まで続いている」と観ていたのであろう。これは噂であるが、この辺りでは現在でも飛仙女が目撃されるそうだ。富士山頂から淡島に向かって飛行する女仙を想像すると、当(まさ)に清々(すがすが)しい限りである。そして白状すると、作者は此処で飛仙女を見たのである。と云っても私が自分の妄想を噂に仕立てたのではない。その噂は八百年ほど前から始まっている。何分この文は小説に分類しておるので、何を言っても自由である。更に調子に乗って、展望確率を上げる秘訣を話しておく。展望地は三島が最適だ、三嶋大社に参拝して空を見上げるのはどうだろうか。飛んでいる時に遭遇する確立は少ないが、四魂(しこん)の働きで過去の映像が観えるかもしれない。そして其れが、冷花であることも有り得る。

冷花伝 #013 積龍神

怪しげな覡(げき)が「吾は積(つも)龍神なるぞ」と叫んだ瞬間、冷花は「戯(たわ)けな」と思った。それでは何故、冷花に其れが偽物だと分かったのか。見かけが「如何にも胡散臭い」からではない。冷花は物心付いた頃から、積龍神に接していたからなのだ。そんな事を云うと、冷花が人間ではないみたいな印象になってしまう。それも其のはず、これは仙町録に書いてある尊霊界の話だからだ。それでは先ず、積龍神について語ることにする。積龍神は、尊霊にとっての「上の神様」である。だから人間界からは、優秀な仙人でも観えないのが普通だ。しかし稀に、輪郭なら観える者が在(い)る。何故に輪郭が観えるかは「話がややこしくなるので」止めておくが、冷花は其の体質だったのだ。七歳の夏、菜田(なた)の尊霊界が騒がしくなった。龍神が頻繁に目撃されたからだ。菜田には蘇支(そし)と云う文刈(もんかり)が居て、色んな出来事を記録していた。文刈とは、歴史学者のようなものだが、文官(ぶんかん)と表現しないのは公職ではないからだ。 龍神が頻繁に目撃されるようになってから、蘇支は龍神との接見を望み、祈願した。その願いに応えてくれたのが積龍神だった。  積龍「聞きたいことが在るのか」   蘇支「私が尊霊に就きまして三十年になりますが、こんなに龍神が来られるのは初めてです。何事か在るのでしょうか」  積龍「これから暦神の結束が始まる故にな、準備をしておる」  蘇支「暦神の結束とは如何なることでしょうか。初めて耳にいたします」   積龍「昔の仲間が同期転生して事を起こすのだ。その仲間たちの遭遇を見守るため、我らはきておる」   積龍神と蘇支の遣り取りは二刻に及んだそうだ。その内容は仙町録に残されている。要するに冷花は其の「暦神の結束」とやらの人員だと云うことだ。積龍神は、謂わば冷花の守護神なのだ。しかし此処で勘違いしてはならないことがある。積龍神は蘇支の質問に応えてくれたほどだから、冷花には多くの知識を与えただろうと考えてはいけない。蘇支は尊霊で冷花は人間であるからだ。但し冷花は、尊霊とは語ることが出来る。

冷花伝 #012 覡の考察

くどい話をするが、覡(げき)とは「男の神降ろし」だと述べる辞書がある。何を言っても「諸説ある」で良いのだが、冷花伝の中では違う。十六歳の冷花が言うに「変な夢を見たので、母に話してみた。母は、覡の話をしてくれた。どうやら最近、嗜乃津(たしなず)に覡がやって来て『神降ろし』を行なっているそうだ。たぶん其の気配が夢になったのだろうと言われた。そこで何処に居るかを聞いて行ってみた。本当に覡が居た。神降ろしをしてみいやと言ったが、子供扱いして相手にしてくれない。仕方ないから母に願って、付いてきてもらった。その覡が『何を降ろすのじゃ』と母に言ったので、私が、本当に降ろせるのなら何でも良いからと言ってやった。すると目を剥(む)いて上を向いて『吾は積(つも)龍神なるぞ』と叫びよった。『覡に龍が来るはずはない』と叫び返してやった。すると急に大人しくなった。私はあきれて母に『帰ろう』と袖を引いて立った。『母様、気持悪いものを見ました。早く帰りましょう。こんな者が村に居るから、夢見も悪くなりまする』母は気まずそうに『この子は神様が観えるそうなのです』と覡に言っておった」此度(こたび)の話はここまでにしておくが、とにかく冷花は、偽神を暴くのが得意な子であった。括(くく)りに覡とは何かを教えておこう。漢字の自己解釈だが「覡」は「巫を見る」と表してある。巫は「かんなぎ」と読んで、男女の区別をしていないのは間違いだ。巫は女と決めておく。そうすると「女を見る」のが「覡」である。神を上手く降ろせるのは女だ。だから男は「神が降りた女を見る」それだけのことだ。神が降りた女を見て、どの様な神かを判断できると、審神者(さにわ)と呼ばれる。冷花に言わせると「審神者なんて胡散臭い」そうだ。

冷花伝 #011 ある巫のこと

御山に行った巫のことであるが、先ず巫と云う存在が珍しくもない。と云うことを知っておかなければならない。人間界に巫の免許があったわけでもないし、一定の作法があった訳でもない。しかし尊霊界には明確な基準があった。尊霊と会話を交わせる女である。男の場合は覡(げき)と云うが、これには一種の免許が在った。各國には其の國を統制する王が居て、王が覡の免を許す。国家試験に相当する基準が王の見識によると考えればよい。面白い事実だが、巫は自称で成立していた。女體の持っている神秘性は自称を正当化する。とでも言うに止(とど)めておく。詳しく語れば良いのだが、そんな事より、冷花に関わった巫に焦点を当てる。巫の存在が珍しくないのに、冷花の父は態々(わざわざ)隣村の巫を尋ねた。その巫はいつの間にか隣村の呂丹炉(ろたんろ)に住み着いたのだが、父は祖母から呂丹炉について聞かされていた。「呂丹炉には神界の門が在って、神々が出入りする。その門前には鬼が居て、人を寄せ付けない」と云うものだ。有り触れていて、更に胡散(うさん)臭い話だが、父にすれば「彼処(あそこ)に住み着ける巫だったら、神通力を得ているに違いない」と思ったのである。ついでだから、その巫の名は射膳(しゃぜ)と云う。名が分明なのは、仙町録に記載されているからだ。

冷花伝 #010 産声の意味

何かと話題を提供する冷花だが「無事に産まれました」だけでは終わらなかった。冷花の産声が特殊だと、尊霊界では大騒ぎになったのだ。ところで産声と云うのは、母親の胎内から出て肺呼吸に変わっての第一声だ。どの様な声かは、出産に立ち会った経験者なら御存知だろう。ところが此の話題の舞台は尊霊界である。だから聞こえ方が違う。「声」と云うよりは「音」と表現するのが適切だ。普通は「ひゅー」と、やや掠(かす)れたような響きだが、冷花の其れは「とぅおーん」と云う金属音だった。金属といえば、昴星(ぼうせい)は金気(こんき)の旺(おう)だから。等と勘繰(かんぐ)るかもしれないが、とにかく其の様に聞こえたのである。要は「普通と違う」だけで意味深くなってしまうのだ。それでは人間の耳では、どの様に聞こえたのか。おそらく普通の赤子だったと思うのだが、作者の趣向で呪文のように「遠伽(おんぎゃ)」と挙げたことにしておく。

冷花伝 #009 赤子の印

確かに仙町録には、出生不明の冷花情報が事細かく書かれている。不思議に思えることもあるが、世界は其のようなものである。ここで勘違いしてはならないことがある。尊霊界の記録が詳細なのは冷花に関してであって、何もかもが、その様ではない。人間界では当り前の情報が、尊霊様は全く知らないこともある。さて臨月を迎えた甲子(かし)は体調を崩したが、出産日が近づくに連れて元気を取り戻した。隣村の巫が「言ったから」かどうかは別として、とにかく快復してきたのである。本来、甲子は元気な女性である。それから甲子の出産に対して大騒ぎしているのは尊霊界であって、嗜乃津(たしなず)の実家では普通に忙しくしているだけだ。仙町録には「昴女なるに昴日に生まれた」と在るが、辰月1日が昴日かどうかは怪しい。但し尊霊界では「昴が眩しいくらいに明るかった」のかもしれない。かくして、無事に生まれた冷花だったが「肌が不可思議に綺麗な赤子」と記録されている。ファンタジー映画だったら「何々の印(しるし)」とか云って「あざ」でもあるのだろうが、冷花は綺麗な肌の赤子として生まれた。生後ひと月の頃、父は隣村へ行った。巫に会うためだが、巫はいなかった。村人に尋ねると「御山(みやま)の麓に行く」と言って姿を消したそうだ。

冷花伝 #008 誕生日

冷花の出生を記録しているのは菜田(なた)の仙町録(せんちょうろく)であるが、仙町録は菜田の尊霊界で書かれた書ではない。随所に「多戸(たんと)にて」と括ってあることから、恐らく淡路島産だと思われる。多戸と云う処は特定の地名ではなく、冉(なみ)族の仙女が渡来した場所を言う。ところが冉族が最も長期に渡って住み着いていたのが淡路島なので、作者の頭(あたま)では「多戸とは淡路島の古名」となっている。冷花が冉族の仙女と出逢うのは九歳であるが、その時初めて冷花が「自分が昴女に間違われたこと」について語っている。「昴女はもっと変な人だ。冷花みたいな普通の子供じゃない。冷花は背も高くなってきているし野摘みもする」この言葉も仙町録に記録されている。ここで注目して頂きたいのは、昴女の性(しょう)である。纏めると「昴女は背が伸びない変な子供で野詰みはしない」と云うことになる。どうやら昴女の目撃記録は複数在ったらしく、常に同じ背丈だったようだ。だから「昴女は背が伸びないから冷花とは違う」と言っている。やや微笑ましい発言だが、実は的を得ているのである。野詰みをしないのは至極端的だ。神界から来た者は、人間界の物を採取してはならない。この事を「子供の冷花が知っていた理由」は、母から聞いていたからだ。さて此の辺で、話を前段の続きに戻そう。父は、難産になりそうな甲子を助けようとして隣村の巫に会いに行った。そして巫には会うことが出来たが「私は御神事で忙しい」と断られた。しかし「その子は強いから大丈夫だ」と言ってもらえたので、父は安堵して帰宅したのであった。それが卯月の23日、そして冷花が誕生したのは辰月の1日。仙町録には、その様に書いてある。

冷花伝 #007 出産直前

人には魂がある。魂は肉体に宿り、身体が使用不能になると退出する。魂は神々からの配分だから、身体から出れば一応、神様の扱いになる。それが身近な神様の実体である。その原理から述べるならば「子を宿す」ことは神を迎えたことになる。よって汝我の思い込みからすれば「私の家系に昴女が降臨した」と大袈裟なことになる。身体に宿った魂が安定するのは妊娠して八ヵ月あたり。そして臨月を迎える。甲子(かし)が臨月に入り、尊霊界から観える昴は益々明るくなった。その事に対して、後の冷花が言う。「母が臨月の頃、昴以外にも明るくなった星座が在ったはずだ。それを冷静に見つめておれば、昴女降臨を錯誤しなかったと思う」この記録は粗衣(そい)の尊霊界に在った。粗衣とは現在の島根県大山町御来屋(みくりや)に中たる。恐らく冷花が二十歳になった頃の発言である。話を戻すが、臨月の甲子を見つめていたのは汝我だけではなかった。汝我の生前、共に働いていた上司が二人居た。この方々も尊霊になったのである。そして汝我の影響を受けて「昴女の降臨」を期待していた。但し、安産を促すような方々ではない。もちろん其の方々の所為(せい)ではないが、甲子は難産になりそうな状態であった。察した父は、隣村に住む巫に助けを求めに走った。その巫と云うのは、いつの間にか現れて村に住み着いた仙女である。仙術に長けていたそうだが、そのような者は嗜乃津(たしなず)では珍しくない。

冷花伝 #006 尊霊の期待

冷花の母が妊娠七ヶ月、尊霊界方の多くは母を見守っていた。昴女の噂が始まる一月(ひとつき)前のことだ。世は武士社会に向かいつつあるも、瀬戸内は一昔(ひとむかし)前のままだった。父は武士に成りたがっていたが、武家が擁立されると云っても、村の自称勇者が騒いでいるだけだ。ところで汝我は官職を経験した占星術師ゆえに、尊霊に成れたと思って頂きたい。そして其の汝我が、冷花の母に注目していたのは、ありふれた理由だ。冷花は汝我の子孫である。母の名は甲子(かし)、占星術師の家柄らしい名だ。俗称では乙(おと)と呼ばれていた。それでは冷花の本名だが、やはり冷花。母の名が干支(えと)の始めなのに対して、冷花の名は干支(かんし)全体を意識して名付けられている。干支(えと)は六十干支(かんし)あって花甲(かこう)と云われている。その「花」が「冷花」の後一字(あといちじ)なのだ。前一字(さきいちじ)の「冷」は冷(ひ)やす意味だが「頭を冷やす」から連想して頂きたい。要するに「六十の気を冷やす」と云う願いが込められている。その働きを星座から読めば「昴星(ぼうせい)」と鳴る。汝我は生前に「名録(めいろく)」を残していた。要するに「命名集」である。その中に「冷花」が在って、母の甲子は「女子を授かったら冷花の名を貰う」と、身重を自覚してから直ぐに宣言していた。見守る御先祖にしては「昴女(すばるめ)が降臨されるのでは」なんて期待するのは無理もない。況(ま)して汝我が尊霊に鳴って六十ヶ月を経(へ)た頃から「昴の気が濃くなった」のだから。